書き初め(習字)における太字至上主義が解せなかった少年時代だった

いや、それ、好みの問題じゃね?

どうも、細字が大好きなシュウヘイです。華奢なフォント万歳

日本で生まれ育った人は、小学校や中学校での習字(書道)の体験が少なからずあると思います。

冬休みの宿題として「書き初め」を強いられた経験は、誰にでもありますよね?

自分が通っていた小学校では、その書き初めを体育館に張り出して全校児童の晒し者にされたあげく、教師陣の独断と偏見で上位3〜5名?に金賞が与えられるという風習がありました。

金賞の作品には金色の折り紙を4分の1程度に切ったものが付けられるので、「俺は金賞だぞ!えっへん」と、校内で自慢できるネタにもなっていました。

自分は小学校時代に習字教室に通っていたので、割と金賞をもらう機会は多かったのですが、正直に言うと全く嬉しくありませんでした。

別にひねくれ者のクソガキだったわけではありません。そこには単純明快な理由がありました。

金賞が嬉しくなかった理由は「教師陣の評価基準」が解せなかったから

理由はズバリ「教師陣の評価基準に納得していなかったから」です。

彼らは「小学生」の先生ですから、単純な「字の上手さ」だけではなく、「小学生らしさ」も評価の対象になります。

「小学生らしさ」というと、「力強さ」「元気さ」などが挙げられます。

習字に置き換えると、「文字の太さ」がそれに当てはまります。

まぁ確かに、線の細い華奢な文字よりも、芯の通ったふとましい文字の方が、ある意味「小学生らしさ」を表現できているのかもしれません。

事実として、自分も担任の先生から、以下のお言葉をいただいたことがあります。

書き初めにおける担任の先生語録

  1. シュウヘイは太字だともっと良い
  2. 少し上手い細字より少しヘタな太字の方が良い
  3. 太ければ太いほど良い

ただ、これって完全に「個人の好みの問題」じゃね?と当時から思っているんですが、いかがでしょうか。

教師陣の「太字好き」という価値観を「小学生らしさ」に置き換えて、評価基準にしているだけですからね。

冒頭でも書いた通り、細字好きな自分としては、「太字至上主義」の文化がどうしても解せなかった。そんな小学生時代でした。

もしかしたら自分が知らないだけで、太字は「書道」という文化の基本のキなのかもしれません。

ただ、文字を書いているのに「字の上手さ」以外のところを評価されてしまうのは、無知な小学生の頃の自分にとっては、どうしても納得できませんでした。

…まぁ、別にどうでも良いんだけどね!全く根に持っていませんし。ふと思い出したので、こんな記事を書いただけです。

それに大会とかじゃなくて、身内(小学校内)だけの話だし。小学校の教師陣はみんな親切だったので、好きだったし。

書道は「アート」でしょ?

少し脱線しますが、「書道家」と呼ばれる人たちがいますよね。

彼らは独創的な表現を用いることで、自分の感情や思考を文字として表現します。

いわば「アーティスト」なんですよね。書道はただ文字を書く作業ではなく、感情や思考を表現する「アート」なんですよ。

「画家」は絵を、「写真家」は写真を、「書道家」は文字をフィールドに、アート作品を生み出します。

話を戻して、義務教育なので習字の基礎を教えること自体は否定しませんが、「線の細さ」くらいの表現は、アートとして認められた方が楽しいと思うんですよね。

「小学生らしさ」を求めるのなら、型にはめてしまうのではなく、書道家の方のような「独創的な表現」も評価されるべきだと思いますし、そっちの方が小学生自身も楽しいはずです。

ぶっちゃけ、無知だった小学生の自分は書道家の方の作品を見て「こんなん適当に書いてるだけじゃん!僕でも書けるじゃん!」と思っていましたからね。

そういう「井の中の蛙大海を知らず」ボウヤに身の程を知らしめるためにも、書道の楽しさを伝えるためにも、自由な発想と表現を認めるような授業や評価を、現役の先生方には希望します。

話はまとまりませんが、このブログで何が伝えたかったかというと、好みは人それぞれ違うんだから、それを認めて褒めて伸ばす姿勢はメチャ大事だってことです。

誰にだって好みや得意なことはあるので、それを皆で尊重し合って伸ばし合える世の中って素敵ですよね。

そういう平和な世の中を常日頃から希望しています。平和主義なので、不毛なディスり合いは極力したくないんですわ。